それは、こんなちょっとした一言からだった。
「この前、オレらんトコに入ってきた古橋ってヤツ、准士官らしーぜ」
「マジで?オレとザキより上じゃん」
「はあ?!あんなぬぼーっとしてる奴より、俺の方が断然出来るっつーの!」
山崎がガタン、と椅子を揺らして立ち上がると、原がぷう、とガムを膨らませながらニヤリと笑った。
「オレが聞いた噂だとさー……花宮のお気に入りらしいぜ?花宮の人形、とか言われてるらしーし」
「人形ってコトは全然テメェじゃできねえってコトじゃねえか!」
「……この前の任務も無事に完遂してきたぞ、アイツ」
一個小隊抱えて、負傷者ゼロだってよ、と瀬戸がチラリと報告書を見やる。山崎は何か言いたげな顔で、口をへの字に曲げている。突然花宮が拾ってきた、この荒れ果てた地に住んでいた謎の人物と言っても良い人間が、自分を差し置いてドンドン功績を得ていくのが悔しいのだろう。
そりゃあそうだろうなあ、と瀬戸は背もたれに寄り掛かりながら、山崎の方を見つめる。瀬戸を含め、山崎、原は傭兵時代から花宮の指揮下で動いてきた。常に完璧を求める花宮の要求に必死に応えてきた三人にとって、突然現れて自分達の役回りをスッと取られてしまったようなものだ。こちらとしても、長年花宮と行動してきたプライドというものが、多少なりともある。だからこそ、瀬戸は山崎達の言い分も理解出来る。何か、こちらも名誉挽回出来るような事をしたい、と。
「おはようございます」
すると、噂の人物がそっと扉を開けて、入ってきた。山崎は今にも飛び掛からんばかりに苛立っているのが感じられ、瀬戸は視線だけで山崎を制した。
「おはよう、古橋。だいぶ、此処にも慣れてきたんじゃねーの」
「……まあ、それなりに」
寡黙な彼はあまり会話というのを好んで交わさない。こちらから声を掛けないと、挨拶だけで花宮の部屋へ籠ってしまう事もままあった。瀬戸はペロリ、と唇を舐めて、どうしたものか、と考える。このまま古橋と山崎達の間に溝が出来るのは、あまり好ましいとは言えない。しかし、古橋の「花宮付きの特別な人間」であるという事実は変えようもないもので、これをどうこうする事は、花宮の直属の部下である瀬戸であっても無理だろう。瀬戸は首を少しだけ捻って、花宮の部屋へと向かおうとする古橋を呼び止めた。
「なあ、ちょっとお前を試しても良いか?」

 突然の問いかけに、古橋はキョトンと目を見開くが、元来表情が表に出にくい性分のせいで、どうやら相手には何も動じていない、と思わせてしまったらしい。好戦的な瞳が真っ直ぐに此方を見ている。よくよく周囲の雰囲気を探ると、どうやら自分は好ましく思われていない事を今更ながらに気付き、古橋は困ったな、と心中で溜息を吐いた。

 今まで、周囲の人間は疑ってかからないと生きていく事が出来なかった。だから、表情も言葉も限りなく少なくすべきだ、とずっとそれだけを中心に考えていた。しかし、軍部という大きな機関に取り込まれた今の現状で、それは相手に不信感を与える要因の一つになるらしい。後ろから、山崎の憎しみにも似たような感情を感じ、そういえば同じ部署に所属しているというのに、全くと言って良い程、コミュニケーションを取ろうとしていなかった事を思い出す。
「なあに、死ぬような事はねえから心配するなよ」
瀬戸が不敵な笑みを浮かべながら、手を組んだ。これは、何か嫌な予感がすると本能が告げている。しかし、これを乗り越えなければ、この軍部でやっていく事は難しくなっていくであろう事も、確かであった。
「俺達もずっと、花宮とやってきたんだ。だから、プライドっつーのかなあ、そういうもんがあるんだよ」
「つまり、俺は望まれた入隊では無い、という事ですか」
「そーいうコト。なあ、瀬戸ー、オレから殺らしてくんね?」
ぶらり、と原が腕を垂らし、戦闘態勢に入ったのが分かり、古橋も同じく腰を落として攻撃に備える。確か、原は諜報活動に長けた人物だった。恐らく、あの腕の中や足には暗器が潜められているのだろう。解毒剤を持ってくるのを忘れたな、と古橋が考えていると同時に、原がタイルを蹴った。それと同時に、山崎が軍刀を抜き出し、迫ってくるのが見え、古橋も所持していた短剣を握った。
「お前ら、喧嘩してんじゃねーよ」
キィン、という金属音と同時に、動きが完全に封じられている事を直感する。今動けば、確実に殺られる。
「花宮ァ……これくらい、ヤらせろよ」
剣呑な雰囲気をそのままに、山崎が軍刀に力を込める。しかし、花宮の軍刀は微動だにせず、花宮の視線が一層強くなる。足元には花宮の足で腹部をモロに蹴られた原が呻いている。
「山崎、原……今すぐお前らのモンを収めたら、この事は無かった事にしてやる」
「……ちぇー、イイ所だったのに」
「っち、しょうがねえなあ!」
「古橋も収めろ」
潜ませていた短剣すらも、見破られているとは。古橋は大人しく短剣を懐に戻した。
「オレがいねえ所で、勝手に暴れてんじゃねえよ、お前ら」
キッと花宮が視線をやると、原と山崎は煮え切らない表情を浮かべて、口を開く。
「だってさー、ズルくね?オレらが話も聞かないまま准士官なんて連れ込んでさー?それって、裏切りじゃね?」
「オレはコイツがオレ達より上ってのに、納得がいかねえ。何で、コイツだけ特別扱いなんだよ!」
「……つー訳だ。花宮、ここは古橋が選ばれた理由を明確に説明して欲しい。これは、俺達が今後、此処で軍部としてやってくのに、重要な事だ」
瀬戸が後ろから花宮に声を掛けると、花宮は苦々しげに眉を顰め、舌を打った。
「……んな事もいちいち説明しねえと分からない知能しか持ち合わせてなかったのか、お前らは?はっ、呆れて物も言えないな」
「俺らにもそれなりにプライドってもんがあるもんでね」
「……ちっ、しょうがねえな。古橋」
突然花宮に呼ばれ、古橋はハッとした表情で、彼を見た。
「靴、舐めろ」
「……それは、お前のを、か?」
「オレの以外のを舐めてどうすんだよ……オレに忠誠を誓ってんなら出来んだろ?」
挑戦的な瞳が、古橋を貫く。花宮には、やはり天性の支配力がある、と感じさせられるのはこんな時だと思う。古橋は命じられたまま、花宮の軍靴の前に跪いた。
そして―。
「……ウゲ、マジかよ」
「人形っつーより、イヌ?」
呆然とする原と山崎に、フッと花宮がどうだ、と言わんばかりの表情を浮かべる。
「コイツはオレに一生の忠誠を誓ってるんだよ。コイツの言葉はオレの言葉だと思え。分かったな?今後一切、お前らがコイツに手を出したら、オレが処刑してやるよ」
「……」
「分かったみてえだな。古橋、書類が溜まってる。早く来い」
「了解した」
軍服を翻して部屋へ戻っていく花宮とその後ろにピッタリと付いて部屋へと入っていった古橋の背中を見やりながら、瀬戸は笑いが堪え切れずに、吹き出す。
「さっすが、花宮のお気に入りだな……!」
「つか、マジで靴舐めるヤツとか初めて見たわ……ドン引きなんだけど」
「ああ……あれで、アイツは良いのかよ……何か逆に不憫に思えてきたぜ……」
一気に古橋に対しての敵対心を無くした二人は、椅子に座り直す。
「なんつーか、オレらの杞憂?」
「無駄に変なプライド振りかざしたみてえで恥ずかしいんだけど……?!」
「まー、一件落着、て感じか?」
瀬戸がふう、と息を吐いて椅子に凭れ掛り、アイマスクを下げる。これで溝はもうなくなっただろう。懸念事項も消えた、というよりむしろ同情心が芽生えつつある。
―それにしても、古橋って読めねえヤツだなあ。
瀬戸は口元に笑みを少しだけ残して、今日もまたゆっくりと惰眠を貪る事にするのであった。
 「お前、抵抗しなかったな」
花宮が椅子に座ると同時に、古橋に声を掛けてきた。古橋は向かい合うように設置されたデスクの椅子に座りながら、全く抵抗感が無かった事を告げた。
「俺は、花宮に忠誠を誓ったからな。お前の言う事は喩えパフォーマンスであっても、実行するさ」
「……なんつーか、お前って……」
いや、何でもない、と告げる花宮に、不思議そうに首を傾げて、古橋は目の前の書類を片付ける作業に就く。

 後日、古橋は花宮信者である、やら、花宮に一歩でも近づこうものなら古橋が飛んでくるやらといった噂が絶えなかったという。
「おはよう、皆」
「はよー」
「おう!ちゃんと飯食ってるか?」
「?ああ、おかげでちゃんとしたものを食べられている」
「……犬皿とかじゃねーよな……」
「……?何か、言ったか」
「いや、何でもねーや」
「じゃあ、また」
そして古橋は花宮の部屋へと消えた。

Fin.