『あの日』の涙を、俺は忘れないだろう―。

"No title"

―夢、か。
木吉は隣で眠る日向を起こさない様にゆっくりと起き上がると、窓際に置いてある椅子へ向かって身体を向けた。
急に、空が見たくなったのだ。
ギシリ、とベッドのスプリングが軋み、少しだけ日向が身動ぐのを感じたが、目を覚ます事はなさそうだ。
ホッとした様子で木吉は動きを再開し、何とか椅子までよろめきながらも辿り着いた。
日向を起こせばきっとこんな移動なんて少しもかからずに出来るんだろう。
でもここ数日、日向は眠る間も惜しんで仕事をしていたから、なるべくなら負担を掛けたくない、というのが木吉の本音だった。
夜明け前の空は月明かりだけが煌々と光っていて、それ以外は水を打った様に静かだ。
―また、泣いていた。
夢の中で現れる日向はいつも、泣いている。
それは時々嬉し涙であったりもするのだけれど、とにかく夢の中の日向は泣いているのだ。
「…俺のせいかな」
ポツリと呟いた言葉は夜闇に溶け込むように沈んでいく。
本音だった。
あの日、あの時。
まさに運命的とも言えるあの出逢いから、もうかなりの年月が経っていたけれど、未だに木吉はその出逢いに複雑な気持ちを抱いていた。
―俺と、出逢わなければ良かったんだ。
日向は自分と逢わなければ、今頃年相応の幸せの中で生きていたかもしれない。
―俺が、縛り付けている。
日向の幸せも、自由も何もかも、自分が奪っている―そう思わずにはいられなかった。
「…また、眠れないのか」
「順平、ごめん…起こしたか?」
枕元に置いてあったパーカーを羽織って、日向はそっと木吉の隣に座り込み、いや、と首を横に振った。
「俺も眠れなくてさ…紅茶でも、淹れてこようか」
身体が冷えたらまずいだろ、と言って立ち上がろうとする日向をやんわりと制し、居て欲しいんだ、と手を握った。
日向はいつだって優しかった。
怪我が発覚した時も、再発して歩く事が難しくなると告げた時も、日向は困った様に眉を下げながらも大丈夫だから、と笑うだけだった。
―俺が、その優しさに甘えてるだけなんだ。
「…ごめんな」
俺に逢わなかったら。
俺が執着しなかったら。
幸せを奪って、ごめん。
「ダァホ、何回お前は謝ったら気が済むんだ」
耳にタコが出来る、とぶっきらぼうに言いながらも日向の表情は柔らかく笑んでいる。
「俺は自分でお前と居るって決めたんだよ…つまりは俺のお節介って事」
お前が謝る筋合いはねぇの、とクスクス笑いながら日向は木吉の足をゆっくり撫でた。
「俺は鉄平がアレコレ走り回ってた時より、今の方が少しだけ…嬉しい」
昔は昔で楽しい事もあったけどさ、なんて微笑む姿は夢の中の日向とは似ても似つかない。
「順平…」
あぁ、なんて愚かなんだろう。
日向はこんなにも、幸せを感じていてくれた。
「愛してるよ、順平…」
「…ん、俺も、愛してる」
昔のようには、もう戻れないかもしれない。
それでも、この愛だけは永遠に変わらない―。
彼の泣き顔が、そっと記憶の奥底で眠る気がした。

Fin.