『初めて、貰っても良いですか』

 IHも近付き、練習量も段々とハイレベルになってきた。季節はそろそろ梅雨を迎える頃で、ジワジワと汗が滲み出す。ロッカールームにはもちろん空調など付いているはずもなく、俺は汗を含んだTシャツからYシャツに着替えていた。
「ねぇ、センパイのファーストキスっていつッスか」
「!?……っけほ、げほ、あぁ?!」
制服に着替え終わり、失った水分を補うためにペットボトルを口にした所で、黄瀬が突然、そんな事を言い出したのだ。咽るに決まってる。
俺はもう一度黄瀬の方を見やると、間の抜けたような表情でこちらを見つめていた。
「笠松が女の子とそんな事出来る訳ないじゃん」
「そういう森山さんこそ、あるんスか?」
ヒョイ、と黄瀬の隣に置いてあったボトルが宙を舞い、俺を通り抜けて森山の手に渡る。
キャップを開けてコクリと一口だけ口に含んで、森山は不敵な笑みを浮かべる。
「ある、もちろん」
「お母さん、ってオチはいらないッスよ」
「げ、お前も言うようになったな……」
森山は大袈裟に驚いて見せると、そーだよ母さんだよ悪いか!と悪態をついた。
「じゃ、二人共した事ないんスね……ふむふむ」
何かを思案するように一人で頷く黄瀬に、俺は訳が分からなくなる。
「っの前に!何で急にそんな事言い出したんだよ!!」
逆ギレに近いのは分かっていた。でも、俺の間で俺抜きで話が進むのが少しだけ、癪だったのだ。
「あー、いや、大した事じゃないんスけど」
黄瀬が言葉を濁しながら頬をポリ、と掻く仕草は何かやましい事がある時によく見せる姿だった。
俺はもう一度、少しだけ語気を強めて言い寄る。これで大抵なら落ちるのだが。
「うー……言わなきゃ、ダメッスか?」
視線を右へ左へと泳がしながら、黄瀬はまだ答えるのを躊躇している。そんなに隠したい事なのかと思うと、更に追求したくなるのは小さな独占欲なのかもしれない。
「黄瀬……さては笠松以外としちゃった?」
「!!?ち、ちがっ……!!アレは、その……っ、するフリだったし、俺は全然したくなかったしっ」
森山の言葉に激しく動揺する黄瀬に、俺はムカムカと腹の中が煮え始めたのを感じる。
「……黄瀬」
「はい……」
シュン、と犬の様に小さく縮こまって怒られるのを待つ姿にどうしようもなく、愛しさを感じる俺はもう異常だと思う。
俺は黄瀬の髪を撫でながら、怒ってはいないと合図する。本当は今から押し倒して問い詰めたい位の怒りが喉まで出かかっていたのだが。
地毛だという、ブロンドに近いキラキラとした黄色の髪を梳いてやれば、黄瀬は少しだけ落ち着きを取り戻したのか、微かに笑んでいる。
俺は動きを止める事なく、後ろに佇んだままの(きっとニヤついている)森山に声をかけた。
「……森山、その話、どっから聞いた?」
思った以上に語気が荒くなってしまい、結構怒っていたんだな、と他人事のように思った。
「あれ、笠松見てないの?あー、昔からTVはあんまり見ないんだっけ?黄瀬が出てるんだよ、CM」
多分映像が動画サイトかなんかにあるだろ……と後ろでスマホを弄る森山をジッと見ると眉を下げてお手上げのサインをされた。
「怒るなって……っと、これ、か」
ホイ、と渡されたスマホには動画が流れ始めていた。
『夏が、始まる―蕩ける様な暑さに。』
男性用の化粧品のCMらしいそれには、滑らかな肢体とヒヤリとした視線を向ける黄瀬が映る。
『始めよう、男性も』
CMの中で普段は見せないような冷たい表情で黄瀬が一言、呟く。
すると、後ろから凭れ掛るように現れた女性の首を取り、黄瀬が、キスを、した。
「だからっ、これはフリなんだって!!!!角度的にそう見えるようになってるだけッスよ!!!!」
「これ、お前のファン達から悲鳴が聞こえたってもっぱらの噂だよなー」
「センパイ、俺……マジでしてないッスから!!!ね、ね?」
ボンヤリと化粧品のタイトルを眺めながら、俺の脳内はパンクした。
「黄瀬」
「……え、んっ……ちょ、んむうっ……」
黄瀬の口内は柔らかくて、温かくて、ほんのり甘さも感じる気がする。
俺だけが、知ってれば良いなんて。
たかが演技の一つでこんなに揺れ動く俺は馬鹿みたいだ。でも、黄瀬を離さない為には、馬鹿にならなきゃいけないのかもしれない。
「……っふ、かさ、まつ……セン、パイ……っ」
俺だけのものにしたい。俺しか考えられないくらいに。
チュ、と唇にわざと吸い付いて、離れる。
痕がついてしまえば良いなんて思った、俺の、少しだけの我儘。
「笠松って、理性吹っ飛ぶとスゲーのな」
「それを見てるお前もどーかと思うけど」
森山にポイとスマホを投げる。危ないなあ、なんて森山は笑ってスマホをスラックスに滑り込ませた。
「俺は、ファーストキスじゃなくても良いから」
「は?……んっ」
チュッとリップ音と共にあっさりと唇は離れてゆく。
「じゃ、今度からはこんな所で盛んなよー」
俺の蹴りをヒラリと躱し、先に戻ってるからなー、などと余裕まで見せて、森山はロッカールームの扉から消えていった。
「馬鹿野郎……後で絞めてやる」
「笠、松センパイ……」
グイ、と森山の唇の感触を振り払うように唇を拭って、俺を呼ぶ声に振り返った。
「オレ、笠松センパイのファーストキス、貰えたんスか……?」
「……ま、そうだな」
高3にもなってファーストキスもしてないなんて恥ずかしかったが、事実なのだからしょうがない。俺はそっけなく答えながら、黄瀬の座るベンチに腰かけた。
「そうなんだ……やったあ!!」
黄瀬がフワと笑顔を満開に咲かせながら、ス、と立ち上がると自分の鞄を手に取ってロッカールームの扉の前まで歩いていく。
「……実は俺も、初めてなんで」
じゃ、放課後の練習で!と瞬く間に扉が開いて、閉まった。
黄瀬の最後の言葉―。
「お前の初めてまで貰えるとは思わなかったな……」
勝手な想像で、黄瀬はもう経験済みだと思っていたから。
思わぬ収穫に、俺の顔は緩んでるに違いない。
パンッと頬を叩いて、俺もロッカールームを出る。
『初めてなんで』、か―。
また緩みそうになる顔を引き締めながら、ロッカールームに鍵をかけ、教室に向かうのであった。

Fin.