【序章】

 

君は、ドッペルゲンガーと言われて、何を思い浮かべる?

そっくりの自分。

出逢ってしまったら、死んでしまう。

ただの都市伝説。

僕は、どう思うか、だって?そりゃあ、モチロン……どうだろうね?僕はそこまで悪いものじゃないとは思うけどね。悪い噂が絶えないものに限って、案外良い事だって多いじゃない。まあ、誰がどう考えようと僕はどうでも良いんだけれどね。

僕は、僕を探してるんだ。え、目の前にいるじゃないかって?ゴメン、それはきっと『僕』ではないだろうね。さて、君の話を聴こうじゃないか。きっと、楽しい話をしてくれるって、信じているよ。

 

          『日記』6205日目より

【第一章】

 

 ピピピ、と脳内に響くアラーム音に、僕は右手をゆっくりと動かして、ベッドサイドにあるだろう時計へと手を伸ばした。うん、と思いきり手を伸ばせば、いつもの感触。僕はカチリとアラーム音を消すと同時に、両目を思いきり開いて、すぐさまベッドから降りる。ベッドサイド近くに置いてある姿見の前へとバッと立って僕は両手を広げる。髪が、重力の動きに合わせてフワリと舞って、肩に落ちる。胸の辺りが少しだけ上下して、ストンと身体に収まる。この感覚は、もう何度目かの体験だ。それでも、思わず口に出さずにはいられない。

「女の子、かぁ……」

少しだけ、否、昨日よりはかなり高い自分の声音を耳で聴いて、ハハ、と乾いた笑いを浮かべる。僕の人生の全てが朝から始まる、と言っても過言では無いのだけれど、いつだって不可思議な気分に陥ってしまうのは仕方の無い事だろうか。いつになったら、僕は『僕』になれるのだろうか?この痒い所に手が届きそうで届かないもどかしさに、僕は眉を顰めるしかない。

「カフカだって虫になっただけなのに」

まあ、本当に虫にまで成ってしまったら、僕は一日中ジッタンバッタンしながら生きていかなくてはならなくなるから、『ヒト』として生きているだけ感謝しよう。緩く巻かれた髪を少しだけ弄って、身体の隅々まで見る。細めの腕に少しだけ膨らんだ胸。どうやら今回の『依頼人』は、あまり栄養状態が良くないか、何かしらの疾病があるのではないかと一瞬考えたけれど、僕に何も不調は見当たらないので、多分この年頃によくある「太ってるより痩せてる方が云々」というヤツだろう。ふっくらしているくらいが丁度良いのだと男が何度言おうと、この国のこの時代特有の『痩せたがり体質』は変わらないのだろうなあ、などとボンヤリ思っていると、突然目の前が真っ暗になった。

「……おはよう」

ボスン、といつもの大きめのパーカーを思いきり被せられて、僕は振り向いてニッコリ笑った。これも、ずっと続いている習慣だ。相変わらずの無愛想な言葉を治そうとするつもりは、彼には無さそうだ。

「おはよう、イチ。今日は女の子だった」

「見りゃ分かる」

いい加減全裸で寝るのを止めろ、と嫌みを言うイチの視線を逃れて、僕は洗面所へと向かって、もう一度自分の顔をジッと見つめた。パシャリと水で顔を洗うと、肌は水分を弾いて、水滴を作る。女の子の、特に若い子の肌は生き生きとしていて、気持ちが良い。僕はニッコリと笑う。可愛い笑顔。瞳の色と髪の色だけは僕の先天的な異常のせいで相変わらずの真っ赤と真っ白の二つだけれど、フワリと髪が巻かれている辺りが、可愛い。オシャレにも気を遣いたくなる年齢なんだろうなあ、と僕はプルンとした唇に指をそっと当てて思案する。少しだけ、細いかもしれない腕をもう一度撫でながら、僕は心の中で小さな挨拶をした。

おはよう、そして、さよなら。

 「今日は誰だった?」

僕は大きく口を開けてゴシゴシと口腔内を擦られるのをジッと待ってから、イチに話しかける。

「ちょっとは待てよ……ん、出たぞ」

ウイーンという機械的な音がした後に、一つの画像が目の前に映し出される。その画像には勿論、僕にそっくりな優しくて可愛い顔をした少女が、映っていた。

「坂田恵理子、十七歳。ごく普通の高校生だな……。所在地は隣町の紅葉町で家族と一緒に暮らしている。……他にも聞くか?」

「いらない」

僕はうんざりしたように首を振って、冷蔵庫へと向かう。どうせ聞いた所で何かが変わる訳でも無いのだから。それにしても、あんな少しの唾液と皮膚細胞だけで人間の特定が出来るこの国のシステムに少しだけ身震いした。生まれてすぐに保管される細胞及びDNAのデータは、国の特級機密として、どこかの地下に綺麗に保存されているらしいと聞いた時には、流石に僕も驚かずにはいられなかった。けれど、この少しでも間違えば危ない方向に向かってしまいそうなシステムのおかげで、僕はほんの少しだけこの世界に恩を返せるのだ。僕は牛乳パックからミルクをたっぷりコップに注いで、零さないように静かにテーブルに置いて、椅子にゆっくりと座る。

端末から目を離したイチは、僕を一瞥してからすぐさまトースターへと食パンを二枚、入れた。

「朝食は少なめに摂れよ。ただでさえお前の身体は変わり易いんだから」

「へいへーい……。毎朝同じ事をどーも」

僕は焼き上がったパンにジャムを塗ろうとした手を止めて、そのままかじりついた。ジャムの一匙くらいで、と思うけれど、その程度の糖分が僕を大きく変化させてしまうのは実証済みだから、大人しく忠告に従う事にする。

「最初は異性に成る度に、ドキドキしたけどさあ……何つーか、もう16年だっけ?とにかくそれくらい経っちゃうと、どうでもよくなるもんなんだね」

「……それは、お前だけだ」

端末に視線を落としたイチに、僕はニヤリと笑って、ピアスの穴だらけの耳に小さく呟いてやった。

「案外ピュアなんですねえ、イチさん?」

「……るせえ、代わり屋」

パンを咥えたまま、端末の電源を落としてこちらを睨んできたイチに、僕は冗談だよ、と微笑み返す。ちょっとだけからかい過ぎたかな、と思っていたら、案の定拳が降ってきた。

「ってえ……!もー、これでも僕は『女の子』なんだよ?しかも、華の女子高生!暴力はんたーい!」

両手を挙げてみるが、イチの表情は変わる訳でも無く、むしろ呆れた様な表情を浮かべて、大きく溜息を吐かれる。

「中身がお前なんだから、関係ねえな。つか、俺達も高校生だろ」

「年齢的にはね」

「年齢的にはな」

微妙な空気が二人の中に少しだけ流れた後、、僕はのんびりとミルクを飲み干した。

「ごちそーさま」

「ん」

手を合わせる僕とは対照的に、もう一枚トースターへとパンを放り込んだイチに、どこか疎外感を覚える。いつの間にか、イチの方が大きくなってしまった。昔は僕の方が『大きい』事だってあったのに、最近はどう頑張ってみても(頑張っているという言葉が相応しいのかは謎ではあるが)、イチの方が身体的にも精神的にも、大きい気がして、僕は少しだけ唇を尖らせた。

「……やっぱ、不公平だよ、世の中ってヤツは」

「何が」

「色々!」

フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向くと、大きな手が、僕の髪をクシャクシャと撫でる。そういう所が、僕を少しだけ苛立たせているなんて、イチは当然のように気付いてはいないんだろうなあ。何だかそう思うと、自分が尚更子供っぽく思えて、少しだけ恥ずかしくなる。僕とイチはずっと同じ場所に立ってる存在なんだ、って信じたいのに。

「今日はどうする」

「……うーん、放課後に会いに行く方が良いかな?人が一杯居る方がさ、目立たないんじゃない?木を隠すなら森の中ってね」

「同感。それに、見物客が居る方がお前も少しは大人しく行動出来んだろ?……またお前にトラブル起こされるのは勘弁だからな」

ニヤリ、と先程の仕返しとばかりに笑われて、僕はむう、と頬を膨らます。けれど、そんなありふれた会話が、イチと交わすだけで、少しだけ特別で大切なもののように思えて、僕は隠れるように小さく笑った。

 

 僕の初めての記憶は、涙で始まる。ぽたぽたと落ちる、涙。それは大きな水溜りを作るんじゃないかってくらい、流れる。止め方も、忘れてしまったかのように、ボロボロと涙を目から溢れさせては、また泣きじゃくる僕と、優しく微笑みながらそっと背中を撫でてくれる至さんと、それから少しだけ遠くの所でイチがジッと僕を見ている、そんな風景。僕ら―つまり、僕とイチの事だけれど―は、15歳の年を迎えるまで、教会の庇護の下で暮らしてきた。この街の一神父であった至さんとの日々は忘れる事の出来ない、大切な記憶だ。僕とイチの生き方を見出してくれた、実のお父さんのような存在の人だった。ああ、そういえば教会から出る日も、僕は泣いていたっけ。

 

 「……いた」

イチの声に、僕はそっと頭を上げる。何もしていないとすぐにボウッとしてしまうのは、僕の悪い癖だ。僕の存在がボウッとした存在だからそうなってしまうのか、それはよく分からない。僕はイチの示す先をジッと見つめ、頷いた。今朝見た、僕と同じ顔を持つ女の子。

「一人みたいだよ、丁度良かったね。道を曲がったら、声を掛けよう」

「ああ」

僕はゆったりとした足取りで、彼女の元へと近付いていく。道を曲がってすぐの所にあったバス停を待つ彼女の肩を、僕はなるべく気さくに叩いた。驚かせるにはまだ早いから。

「こんにちは」

フードを被った僕と、その後ろに立つイチの存在に彼女は怪訝そうな表情をする。知らない人間に声をかけられたのだから、当たり前の反応だ。僕だって絶対そんな顔をすると思うよ、と口元笑みを浮かべながら、僕はフードを少しだけ捲って彼女だけに見せつけるようにした。

「……ウソ、でしょ……」

「ゴメン、本当。……えっと、改めまして、こんにちは……坂田恵理子さん」

鞄を落としかける彼女の肩をそっと抱いて、僕は非情な言葉を投げかける。いつだって、この瞬間が嫌で嫌でしょうがない。けれど、これが僕の生き方なのだ。

「僕は、貴女のドッペルゲンガーです。貴方は……今日、死ぬでしょう」

 

 ドッペルゲンガー。世界に三人は自分とそっくりの人間が存在する―彼らに会ってしまったら、死んでしまう―そんな都市伝説は、伝説でも噂でも無く、本当にあった。僕という、存在として。

 僕が生まれた直後、その怪異は既に始まっていたという。教会に拾われた僕は、至さんから僕の出生の謎と、その顛末を話してくれた。

それは、暖かさがもうじき街を包み込むような、初春の頃だった。そんな時期に、僕は生まれた。

「香織さん……!もう少し、もう少しだから、頑張って……!お子さんは、無事よ……!」

「早くお子さんを拭いて、見せてあげて!」

母の命は、僕が産まれると同時に、消えようとしていた。それでも、母は僕を産もうとしてくれた。僕はその頑張りに応えるかのように、大きな産声を上げた。

「香織さん!ほら、そっくりの可愛い、赤ちゃんですよ……!」

看護師は必死に声を掛けながら、僕を包もうとした時に、何て母親に瓜二つなんだろう、と少しだけ驚いたそうだ。けれど、母は僕を見る前に、出産に伴う大量の出血によって、その灯火を消してしまった。フワリ、と母は笑っていた、と話す看護師もいたようだが、それが真実かどうかは今となっては確認のしようが無い。けれども、無事に産まれてきた僕を、父は亡き妻に瓜二つの僕を育てようと、しっかりと抱き締めてくれたそうだ。まさか、自分の子が妻を殺した―否、死に追いやってしまった直接的な原因である事にも、気付かずに。父は仕事を続けながら、どうにかして我が子を育てようと、教会に援助を求める事にした。それが、至さんと僕の初めての出会いだった。

僕らの住む国とやらは、ほとんどの人間が信者である大きな宗教―シックザール教が、国家を動かしているといっても過言では無い程、宗教との繋がりが深い国でも有名である。それ故に、精神面―特に教育機関は、教会の管轄に置かれ、人々はその教えに従って慎ましい生活を送っている。経済的な面においても、信者からの多額の寄付・寄贈が多い為、政界でも教会の存在は強い権力を保持し続けており、世界の中でもかなりの教育水準と、乳幼児生存率を誇っているのだそうだ。

 とにかく、そんな訳で僕は教会で育てられながら、どうにか片親だけでも生き延びる事が出来たのである。けれど、それも僕が3歳になる頃に、壊れてしまった。遠洋漁業を仕事としていた父と僕が会えたのは、本当にほんの少しだけで、僕が産まれてすぐと、3歳の誕生日をもう少しで迎える、という真冬だけだった。待ち侘びていた我が子との再会に、心を弾ませていただろう父は教会へ向かう道路で事故に遭って、そのまま息を引き取った。雪が例年より多く降った為の、一台の車のスリップからの多重事故だったそうだ。その当時のニュースに、それは大きく取り上げられたという。そんな事故が起きるなど知り得る筈の無い僕の顔は、不気味な程父にそっくりな顔をしていた、と父の葬儀が終わった後に至さんが教えてくれた。そして、僕とイチだけが、いつも至さんの住む部屋でずっと育てられていた意味を、その日初めて、教えてもらった。

「君の身体は、変異する」

 

 「どーお、少しは落ち着いたかな?」

僕らと恵理子さんは近くの喫茶店へ入って、奥の座席を陣取った。僕はフードを被ったままイチにオーダーは任せて、目の前に座る彼女の表情から怯えが消えるのを、ゆっくりと待った。僕が二回目のミルクティーを頼もうかとイチを小突いていたら、彼女と、やっと視線が合った。彼女は何かを決心したような顔で、僕をジッと見つめたまま、小さく口を開いた。

「……もう一度、声を……聞かせてくれる?」

「うん、君の為なら何度でも。……恵理子さん」

「……やっぱり、本当に、何もかも、同じ、なんだね……?」

おずおずと話す彼女の一言一句を聞き逃さないようにしっかりと僕は彼女を見つめる。「声、身長、体重、血液型……そして、何よりDNAのレベルまでコイツは、あんたと同じだ」

「髪と目の色は昔から変わんないんだ。あっ、仕草とかは、勿論初めて恵理子さんを見るから、『僕』なんだけどね?」

「話をややこしくさせるな」

イチが、僕を睨む。僕は肩を竦めて、ニッコリと笑みを浮かべて、彼女を見返す。寸分違わない自分の顔が、鏡でもないのに笑顔を向けている、そんな状況を彼女はどう想っているんだろう。どう感じているんだろう。僕は息を少しだけ吸ってからゆっくりと吐いて、彼女の表情をそっと窺うように見つめた。

「怖い?」

「…………うん」

正直な感想だ。いきなり自分と瓜二つの人間が出てきて、その上今日死にますよ、なんて言われて驚き、恐怖を覚えない人間はいないだろう。だからこそ、僕は彼らの感情を、直に感じて、触れて、抱き締めようと努力するのだ。

「でもね、残念ながらこれは事実なんだ……。僕は、何人もそういう人を沢山見てきたから」

「見てきた、というよりも結果論としてそうなってしまった、という方が正しいだろ」

横からイチが冷めきった声でそう付け加えると、彼女は今にも泣きそうな顔を浮かべた。

「じゃあ、例外なんてものも、」

「ないな」

「……そうだね、僕が見てきた限りでは居ない、かな」

 ウソを、一つだけ吐いた。例外はたった一人、居る。そして、その人間はいつも僕の隣に何事も無かったように、存在している。

 

 「僕の、せいなんだ……!」

僕の初めての記憶―泣きじゃくっていたあの日が鮮明に蘇る。

僕はその日の朝、自分の顔を見つめて、愕然とした。僕の顔が、イチとそっくりになっているのだ。

「落ち着いて」

至さんが、今にも卒倒しそうな僕の肩をギュッと掴んでくれた。しっかりと抱かれながらも、僕はたちまちに涙を目に溜め、ボロボロと泣き始める。

 その頃は自分が毎日のようにコロコロと変わってしまう事象にとても悲観的だった。何故なら、僕が『その人』になると、その日か次の日には、教会に僕とそっくりだった顔の人達が棺に入れられて連れて来られるのを見ていたから、勝手に僕が殺人鬼になってしまったような感覚に陥っていたのだ。両親が死んでしまったのも、僕が生まれたせいなんだとも思っていた。だって、両親はどうしたって僕に似てしまうだろうから。

そんな事を考えながら過ごしていた僕は、積極的に人と関わるのを控えていた。教会の中でも、なるべく他の子供達とは離れて遊んでいた。その頃は何とはなく、だけれど、僕の周囲にいると犠牲になっているような気がしていたから。いつも焼きたてのパンを届けに来てくれたお兄さんも、いつも教会の周りの花々を綺麗にしてくれていたお婆さんも、そして―僕の傍で静かに本を読んでいたイチさえも、犠牲になろうとしている。だから、僕はこの暖炉で温まった部屋から、罰を受ける時に使われる、冷たい倉庫へと今すぐ走って行って、その中に籠ってしまいたかった。もう、誰とも逢わなければ、こんな変な現象も無くなると、本気で思っていた。そんな僕を必死に抑えながら、至さんはイチを呼んで、僕の隣に座らせた。僕は横に座ったイチと、なるべく顔を合わせないように、至さんの言う通りに逃げ出さずにその場に座り込んだ。

「君達はね、とても特別な存在なんじゃないかな、って私は思っているんだ」

至さんが、ゆっくりと口を開いた。それはいつも水曜日に開かれる御講義の時のようにゆったりとした声音で、けれどしっかりとした意志のある言葉だった。僕は、こんな特別なんて要らないよ、と思わず叫びそうになったけれど、至さんの真面目な表情に黙るしかなかった。

「きょーくんには、まだ話していなかったけれど、一樹くんの御家族はね……連続強盗殺人を犯していた恐ろしい犯罪者によって、全員殺されてしまったんだ」

僕は至さんの言葉に、涙を含んだままの両目でジッと隣に座ったままの少年を見た。

「……イチには、何も無かったの……?」

僕の質問に、イチは無言で長く伸ばしていた前髪をめくった。そこには縦に長く線のような痕が残っていた。僕もそれに合わせてそっと、同じ場所を触る。すると、少しだけその部分の肉だけが盛り上がっているのが分かった。

「俺はもう、死ぬのは怖くない」

表情の読めないイチの口から、そんな言葉が発せられて、僕はまた哀しくなってギュッとイチの手を握る。

―本当は、そんな風に思っていない事だって、僕は分かるんだよ。知ってた?

僕が変化した人達の身体の何処かに触れると、彼らの感情が激流のように自分の思考全てを占領してしまうのは、ある種の特技であり、困りものだった。

 

「アレ?何かきょーくん、俺にそっくりになったね?」

「……気のせい、だと思います」

僕は顔を俯かせたまま、パンの入った籠を受け取ろうと、両手を差し出した。僕はその日、お兄さんにそっくりになっていた。しかも偶然であったのか、それとも必然だったのか、奇しくも教会から歩いてすぐのパン屋さんへ、パンを受け取りに行く当番が、僕だった。僕は沢山の言い訳を作っては何とかその当番を逃れようとしたのだけれど、結局はダメで、仕方なくパン屋さんへと向かったのであった。さっさと終わらせてしまおう、と僕はぶっきらぼうに籠を取ったその瞬間、少しだけお兄さんの無骨な指に触れてしまった。

―今日は機嫌が悪いのかな?美味しいパンを沢山作ったから、今日はサービスしてあげよう。そしたらきっときょーくんも喜んでくれるよね。ああ、もうすぐ小麦粉が切れそうだ、買いに行かないと。あ、叔母さんに今日はコロネを沢山作っておけって言われてたのに、忘れてたな!今からでも間に合うかな……。

激流のように、お兄さんの言葉で僕の頭は一杯になって、僕は思わず目を瞑った。グルグルとお兄さんの言葉が僕の頭を巡っては、消えていく。そして、もう一度目を開けた瞬間に、僕は見てはいけないものを、見た。お兄さんが、どこかで、倒れている幻。そこが、いつもお兄さんが足しげく通っている八百屋さんのすぐ傍だと気付くのに、時間はかからなかった。

「大丈夫かい、きょーくん?」

「……う、あ、は、はい……さ、さよなら!」

キョトンと僕を見つめるお兄さんの視線から逃げるように、僕は籠を持って走った。何だったのだろう、今のは。ウソであって欲しい。いつもの白昼夢のようなものに違いない―そんな考えが僕の中に占める。けれど、そんな僕の想いはことごとく霧散するかのように、次の日の礼拝の時間に至さんが神妙な面持ちでお兄さんが暴漢に襲われそうになった女の子を助けようとして、亡くなってしまったのを教えられた。まさに、死神が自分に降りているんじゃないか、と疑ってしまうような最悪の日だった。

 

 それ以降、僕は至さんに必死に頼み込んで、なるべく人に逢わないように―うっかり触れて、僕が死神を呼び込んでしまわないように―部屋を変えてもらった。そこに居たのがイチで、彼も、他の子供達とは馴染めずに、否、自分から拒むように一人で本を読んでいる事が多かった。だから、僕も気にせずにその部屋で本を読んだり、思い浮かんだ絵を描いたり、と好き好きな事をやっていた。会話だって、そんなにした事は無かった。それなのに、どうして。僕はまた、顔を歪めてホロリと涙を零す。

「……ねえ」

「…………」

「…………」

お兄さんの一件が遭って以来、人に触るのは一番嫌いな事だったけれど、今は触れている事が唯一の手段のように思えて、僕は躊躇なく彼の手を掴んでいた。

「あのさ……イチは、何か話さないの……?」

「話す事なんて、ねえよ」

小さな声がざわざわと僕の頭の中に聞こえてくるけど、何を言っているのかまでは分からなかった。それでも、彼が頑なに人を拒んでいるのだけは何となく感じられた。不機嫌そうな顔をする彼の思ったより温かい手を、どうしても離す事が出来ずに、僕はぎゅう、と少しだけ力を入れてもう一度握り直す。それを彼は嫌がる事も無く受け入れてくれるのは、今の僕の顔が、彼と同じだから?それとも、何かあるんだろうか?ジッと見つめても、ふい、と顔を逸らされてしまう。

「二人は、何だかとても強いもので結ばれているのかもしれないね」

そんな様子を見ていた至さんは、ゆっくりと座っていた椅子から立ち上がると、僕達の所へやってきて、微笑んだ。

「二人とも、不幸な事故で大切な人達を、失っている。……それは、教会(ここ)に住んでいる子供達にしてみたら珍しい事じゃあ無い。でも、君達は幾つもの生と死の境目を歩きながら、それでもしっかり生き抜いている。そうは思わないかい?

ニッコリ笑う至さんの言葉に、僕は思わず首を大きく横に振った。イチはともかく、僕は生死の境目だなんて歩いていない。むしろ、他の人達を沢山、死に追いやっている。悪魔の様だ、と僕が呟くと、至さんは僕の髪を優しく撫でて、悪魔だったら、死んでいく人達の為に泣いたりはしないよ、なんて笑ってくれた。

「……でも、それでも、これは変えられない運命なんだ……。イチは、今日、死んじゃうんだ……!」

「俺は死なねえよ」

「死んじゃうんだよ……!僕が同じ顔になると、皆次の日には死んで、棺の中に入ってるんだ……!僕はもう何回も見たし、幻だって……見た事があるんだよ?」

同じ顔になった人の死に様をボンヤリと見てしまう事は何回かあったけれど、それを他の人に話すのは初めてだった。ウソだ、と言われようと本当だと信じてもらいたかったから、つい口からそんな事が出てしまった。

「……じゃあ、俺はどうやって死ぬんだよ」

「…………分からない」

イチの死ぬ場面は、まだ見ていなかった。けれど、見なかったからと言ってその人が死ななかった例は知らない。僕が正直にそう伝えると、イチは少しだけ納得したような顔をして、ふーん、と呟いた。

「お前が今まで何を見てきたかなんて、興味ねえけど、俺はそれでも死なねえよ」

断定的な口調で言われ、僕は少しだけムッとした。僕だって、言いたくて死んじゃうなんて言ってないのに。

「本当なんだから、信じてよ」

「俺だって、本当だ」

何が、と食って掛かろうとした所で、そっと至さんの手が割って入ってきた。

「二人とも、本当の事を言っているよ。きょーくんも、一樹くんも、ね」

至さんがそっとイチの服を持って、捲る。止めろ、とイチが叫ぶのと同時に、顔の傷痕よりも大きくて深い穴が開いて、塞がったような痕が見えた。

「ごめんね、一樹くん。でもね、これが証拠だよ、きょーくん。一樹くんは事件の時、心臓を一突きされているんだ」

「……でも、死ななかった」

イチが、苦虫を潰したような顔をして、僕を睨む。僕は、無意識に心臓の辺りにそっと触れていた。顔の痕と同じように、そこだけが少しだけ膨らんで、痕になっているだろう事は、服の上からでも分かった。

「……一樹くんも、毎日きょーくんの顔や体がいつも違くなるのは、見てたよね?」

コクリと静かに頷くのを見て、至さんはそっと僕らを抱きしめた。

「分かったかな……。どちらも、哀しくて、辛い事だけれど、事実には変わりが無いんだ」

僕は、また涙を一つ、二つと零して、至さんの肩を濡らした。何故だか哀しくて、とても苦しかったのを今でも覚えている。

「……これは、主が与えた人間への、メッセージなのかもしれないね」

至さんの声がすうっと身体に染み込んでいく。カミサマだなんて、教会に住んでいながらずっと信じていなかったけれど、この時ばかりはもしかしたら、カミサマが僕とイチを逢わせたんじゃないかって思わせた。至さんは、ゆっくりと言葉を選びながら、僕らを抱きしめたまま、話を続けた。

「君達は、こうしている間にも、何人もの人達が生まれて、それと同じくらい亡くなっているのが、分かるかい?……私も、流石にその大きな流れを見る事は出来ない。でもね、君達はその大きな流れから、少しだけ離れて生きているのは、少しだけ感じる事が出来るよ」

「……それって悪くないの?」

「どうなんだろうね……私も、分からない。でも、これだけは言えるよ。君達は―地上での主の、代行者なんだ」

「だい、こうしゃ……」

至さんがしっかりと頷くのを、僕らはジッと見つめ返していた。今思えば、至さんは敬虔な信者であったから、そういう表現を選んだのかもしれない。けれど、その時の僕らにはその言葉がとても大切なものに思えたんだ。

「主は、荒廃してしまったこの世界に憂慮されて、君達のような代行者を地上に下ろしたのかもしれない」

「何の為に……?」

「主の代わりに、聴いてやるのさ。死にゆくものと生き抜いていくものの声を、ね」

「聴くだけで、良いのか」

「ああ、聴くだけでも良いと思うよ」

「……でもさ、それじゃ……聴き損、じゃない?」

「きょーくんもそう思うの?……だったら、その声を形にしてあげれば良いんじゃないかな?声を聴いた人の周りにも絶対、沢山の人達が居る筈だから、その人達の為に、言葉にして渡してあげるんだ」

「お手紙、みたいだね」

僕はふと口にした言葉が意外にもしっくりしてしまった事に驚いた。

 声を聴き、それを僕らが言葉にして、渡してあげる―それは何だか、とても特別で、綺麗なものに思えた。

「僕、やりたい」

「……お前だけじゃ不安だから、俺も、やる」

僕の言葉に賛同するなんて。僕は大いに驚いて、そしてまた泣いた。

「……じゃあ、今日、死んだりしたら嫌だから、ね……」

「……死ぬかよ」

少しだけ偉そうに言うイチに、僕は笑いながら、雫を落とした。

 

 「……それで、君達は私の、所に?」

「うん、君の声を聴く為に」

カラン、と水の入ったグラスの中で氷が静かに動いた。イチは黙ったままだ。

「私、そんなに敬虔な信者でも無いけれど……良いの?」

「主の代行、なんて形だけだ。気にする事は無い」

「そーそ!僕らだって、そこまで信じてる訳じゃないしね」

でも、そんな言葉が僕らを生かしてるのかと思ったら、少しだけ可笑しくて、僕はクスクスと笑ってしまった。

「不謹慎な奴め」

イチが僕の頭を小突く。僕は肩を竦めながら、苦笑する。

「……ふふ、面白いね、君達」

ふわり、と空気が少しだけ和らいだのを感じた。彼女の警戒心が消えていくのが手に取る様に分かった。僕はここぞとばかりに、両手を広げてテーブルの上に置いた。

「だから、少しだけ聴かせて?君の、恵理子さんの、本当の気持ち」

「…………はい」

そっと同じ形の手が、僕の手に重なる。と、同時に沢山の感情が僕に流れ込んできて、思わず椅子に凭れ掛る所を、イチがそっと後ろで支えてくれた。ありがとう、と小さく呟いて、僕は彼女の声に集中した。空気が少し和らいだと言っても、やはり彼女の深くて一番柔らかい、感情の波は大きく揺れている。この不安を、いつか目指そうとしていた夢を、僕はゆっくりと自分に馴染ませていく。彼女の感情を素直に、そして正直に書けるように。

 「……はい、終わり。もう、大丈夫だから」

数分ほどの繋がりで、僕は彼女の気持ちを文字通り言葉に代えて、全て手紙にしたためる。手紙にしてみよう、と提案したのは意外にもイチからの方で、僕は少し驚いたけれど、賛同した。知らない人から急にあなたの知っている人が亡くなって、こんな事を言ってましたよ、なんて言った所で、足蹴にされるのが普通だろうと思ったからだ。それに、至さんの言っていた、『声を聴いて、言葉にする』という事を全て出来ているような気がしたというのもあった。僕は彼女の目の前できちんと封をして、それからギュッと彼女を抱き締めた。

「ありがとう」

「……ううん、私こそ」

同じ身体が、抱き締めあうだなんて、とんでもなく不可思議な光景だろうな、などと思いつつも、いつだってこの行為をしているのは多分、最期を見てやれない事への贖罪の意味もあるのかもしれない。

「あの、私は……」

少しだけ逡巡したように視線を泳がせて、彼女が僕らを見る。きっと、最期を聞きたいのだろう。けれど、それだけは教えてやれなかった。

「このまま、普通に過ごして欲しい。俺達に逢ったのは、偶然で、本当なら何も起こらずに過ごすんだったんだからな」

「……ごめんね、これだけは(さき)を変えてしまうかもしれないから」

「そう、そう……だね」

彼女は小さく頷いて、そして少しだけ口元を緩めて、微笑んだ。

「……ありがとう、ございました」

ぺこりと挨拶をして、雑踏の中へと消えていった彼女の背中を、僕は滲んだ視界で見る。いつも、この瞬間だけは涙が零れそうになる。もしかしたら、彼女の心の涙が、僕を泣かせようとしているのかもしれない。

「……おい、帰るぞ。お前の時間も後少しだろ」

イチが背中を向けて、後ろ手を差し出した。おんぶされるだなんて子供っぽいから嫌だ、とは流石にこの僕では言えなかった。もうすぐ、彼女になった『僕』という存在も、彼女の最期が近付くにつれ、危ういものとなるからだ。僕は渋々といった体で背中におぶさり、手紙を差し出す。

「ちゃんと、渡してよね」

その時はきっと、『僕』の意識は消えてしまっているから、という言葉を言外に含ませながら僕は笑う。

「モチロンに決まってんだろ」

「……ありがと、イチ」

「…………おう」

意識が霞みがかって、眠りに落ちる一歩手前のようになってきたのを感じて、僕は今日の終わりを知る。また明日になったら、果たして『僕』はどんな『僕』になっているのだろう。怠さで一杯になってくる身体をイチの背中に沈み込ませながら、僕はそっと目を閉じる。どうか、彼女の最期が哀しいものでは無いように。小さく祈りの言葉を口にするかしないかの内に、僕は夕闇と共にやってくる静かな『死』へと向かう。

「……おやすみ、虚無」

                  続