「……誰、だ」
チリと肌が張り詰めるような感覚に、花宮はゆっくりと両目を開いた。
森の奥深くに忘れ去られたようにあるこの館にやってくる者などは限られている。
―獣か、魔物か。
背後に気配を感じたその刹那、鋭い銀の刃が花宮の喉元に当てられる。
「夢魔……まだ、こんな所で生き残っていたのか」
「…っ、生憎、そう簡単に殺られる程柔じゃないんだよ」
ヒヤリとした刃が喉元に食い込み、呼吸が苦しい。
どうにかしてこの刃から逃れなくてはならない。
―こんな所で死ねるか!
「残念だが、お前は神の管理から外れたものだ…断罪する」
「…ま、待ってよ!」
首を刎ねる瞬間に弱まった首への圧力に、花宮は咄嗟に両手で刃を押し返す。
指から血が滲んだが、構っている暇は無かった。
「今回の件なら悪かった…でも、オレが生きる為に仕方が無かったんだって」
そっと顔を上げ、懇願するように魔物の顔を見る。
漆黒に包まれたその表情はまるで、死人そのものだ。
「お前、死神…?」
「……あぁ、そうだけど」
―死神じゃあ、美味くなさそうだな。
死者を出迎え、新たな生を与える魂の管理人―それが死神だ。
生死を司る彼らにとって人間の繁殖は必要不可欠なものであっても、彼ら自身には何ら必要性がないだろう。
あわよくば襲ってきたものの精気を奪ってやろうと考えていた花宮であったが、それも叶いそうにない。
―オレも年貢の納め時ってヤツかよ…最悪。
死神の任務遂行への意志は固い事も有名だった。
花宮は言い訳する事も諦め、再び斬撃が来るのを目を閉じて待ってみるが、刃が降り下ろされる気配がない。
「……えと、死神…さん?」
「…名前を」
「は?」
下げられたままの刃に安心しつつ、花宮は突然の質問に首を傾げる。
「お前の名前が聞きたいんだ…あ、俺は古橋」
「へ、あ…お、オレは花宮…です」
突然態度を軟化させた死神、もとい古橋に花宮は頭を混乱させながらも、立ったままの古橋に腰掛けるように促した。
「花宮は、人間の精気を吸うんだろう?」
「…はい」
「畏まらなくて良い…それで、その精気は人間じゃないと駄目なのか?」
古橋の質問が何を意図しているのか分からず花宮は思わず頭を抱えたくなるが、とりあえず答えるのが望ましいのだろうと判断し、首を横に振った。
「人間が、一番精気を奪いやすいってだけで…別にどんなものでも」
「なら、俺にしないか」
「はい?」
キョトンと目を見開く花宮に対し、古橋は至って真面目な表情で話を続けた。
「何だって精気があれば良いんだろう?だったら俺にすれば良い」
「ちょ、ちょっと待てよ!死神にそもそも精気なんてあんのかよ?!」
「…イミが分からないな、人間と作りは一緒なんだからあるに決まってるだろう?」
―その死んだ目で言うか…!!
思いきり突っ込んでやりたい所を何とか我慢する花宮を差し置いて、古橋はなおも話を続ける。
「俺達死神にとって、予定されていない死者が出るのはあってはならない事なんだ…だから、死を迎える事のない俺の精気を吸えば花宮は満足だし、俺達も困らない」
良い提案だろう、とにこやかに笑いかけてくる古橋が花宮は信じられなかったが、確かに良い案でもあるように思えた。
これからも花宮が人間を襲えば死神達は断罪する為に追ってくる可能性は高い。
しかも彼らの悪魔に対する行為は残虐かつ執念深いらしいから、此処を逃げ出す事も叶わないだろう。
そんな高いリスクを負うよりも、古橋の提案を受け入れた方が何倍も得であるのは確実だ。
―しかし。
「そんな美味し過ぎる話をいきなり信じられるかよ…何を考えてる?」
「…何も?」
感情を一切写さない漆黒が花宮を捉える。
「俺はただ、花宮を愛してみたくなっただけだよ…人間の様に」
「ハァ?」
ますます意味の分からない事を言い出す古橋に、花宮は驚きを通り越して呆れさえ感じ始めていた。
死神が、悪魔を愛してみたい?
しかも『食糧』でしかない人間の様に?
「…馬鹿じゃねぇの?」
「そうかもしれないな…でも俺は確かに思ったんだ、花宮を一目見た瞬間に」


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