俺は『猫』を飼っている。
ある日突然住み着いた『猫』は、その名に恥じずかなりの気分屋だ。
家にいたと思えばフラリと何日も帰って来なかったり、なんてのはよくある話だ。
そのくせ『猫』は大変寂しがり屋で、俺が家にいないと不満そうにベッドで丸くなっていたりする。
それでも、俺はそんな天の邪鬼な『猫』を愛している。
その『猫』の名は―。

"ep.2 ペットとベッド"

「…遅い」
パチリ、と電気を付けると、そこには丸まった布団と投げ出された携帯があった。
今回は携帯は無事だったようで、古橋はそっと胸を撫で下ろしながら布団の塊の隣に近付いた。
「そろそろ論文の準備しようと思って図書館にいたんだ」
今日も遅いって聞いてたから、と言い訳混じりに付け足してみるが、塊は微動だにしない。
完全に機嫌を損ねたらしい様子に古橋はやれやれと肩を竦めつつ、沈黙する塊を撫でた。
「…夕飯は?」
「……まだ」
「俺もまだなんだ…今から作る事になるから遅くなるけど良いか?」
モゾリと塊が動き、肯定しているらしい事がそれとなく分かる。
古橋は塊をもう一度撫でて、冷蔵庫へと向かった。
今夜のメニューはポトフに決まりだ―。

カタ、とテーブルに皿を並べると塊から探るような視線が向けられる。
「……花宮」
「………何だよ」
塊―もとい、花宮はやっと布団から顔を出したものの、その表情は声音と変わらず不機嫌なままだ。
どうしたものか、と首を傾げてみるがやれる事は一つくらいしかない。
サラダをのせた小皿をテーブルに置いて、古橋は花宮がまた潜り込まないように足早に近付き、抱き締めた。
「明日は講義もバイトも無いから、ゆっくりしよう」
「…ん」
すりすり、と肩口に頬を擦り付ける様はまさに猫そのもので、古橋は笑んだ口元を隠すことなく擦り寄ってきた花宮の髪を梳いた。
「冷めるから、食べようか」
花宮の心地好い体温を自ら手離すのは口惜しいが、冷えてしまった食事でまた気分を害されるのも困るので、そっと花宮を促した。
「……あの日も、こうだったよな」
「え?」
「家、住まわせろって言った時だよ!…あの時も、夕飯食べようって」
そうだったかな、などと曖昧な返事をしながらも、古橋の記憶の片隅からはあの日の記憶が零れ落ちてきていた。

―疲れた…。
古橋はエレベーターのスイッチを押しながら、その日配られた書類やら冊子が詰まった鞄を抱え直した。
高校の時より楽だと思っていたのが間違っていたのかもしれない。
選択の自由度が広がる程、個人にかかる負担は増えるものだ。
今夜にでもどの講義を取るか吟味せねば―次々に上がっていく数字をボンヤリと眺めながら、古橋はそっと溜め息を吐いた。
チン、と安っぽいベルの音と同時に扉が開く。
あぁ、そういえば今夜のメニューも決まっていない。
これまた予想外だった一人暮らしの窮屈さにどっと疲れを感じながら古橋は鍵を取り出そうとジーンズのポケットをまさぐった。
「おかえり」
チン、とまたベルが鳴ると同時に背後から衝撃が伝わる。
この感触も温度も匂いも、半年前までは当たり前のものだった。
今はもう、遠い記憶でしかない筈なのに―夢でも、見ているのだろうか。
「―っ、」
その名を呼んだらこのまま消えてしまいそうな気がして、古橋はそっと回された腕を握りしめた。
「…ただいま」

「幽霊でも見たような目だったもんな…そんなにオレがいたのが不思議だったかよ」
「…いや、まさか家まで知ってるとは思ってなかったからさ」
正直にありのままを伝えれば、花宮はクツクツと噛み殺したような笑みを浮かべたままスプーンを突き出した。
「オレがお前の居場所くらい把握してないとでも思ってたのか?傑作だな」
口先からは棘のある言葉が出てくるが、それは日常茶飯事だ。
どうやら機嫌はそれなりに良くなってきているようである。
古橋は瑞々しく輝いているトマトを口に運びながら、あの日以来の生活をもう一度思い返して笑った。
帰って寝るだけの準備しかしていなかった古橋の家に様々な生活用品が運び込まれ、そしてさも当たり前のように住み着いた花宮。
なかなか研修続きで帰ってこない花宮を待つというのは寂しいものを感じたが、花宮がこの家に帰ってくるという事実だけで嬉しかった。
―このままずっと、なんて我が儘だな。
夢物語だと分かっていても夢見る事を止められないのは、一度この手からあの温もりを手放したからか。
もう二度と離したくない、奪われたくない。
「…古橋」
「ん?」
いつの間に移動したのだろうか、花宮は古橋の肩に寄りかかり固く握られた右手をそっと包み込んだ。
「オレから、逃げるなよ」
「―!!」
心を見透かされたとしか思えないその言葉に、古橋は不敵に笑む花宮の瞳を見返す事しかできない。
「…お前が何を考えて、どう行動するのかは興味ない……けど、お前はオレしかないんだから」
どうして、花宮はこんなにも欲しい言葉ばかりくれるのだろう―古橋は空いていた左腕で花宮を抱き寄せ、ありがとうと呟いた。
「花宮の傍に、ずっといるよ」
花宮の許す限り。
花宮が望む限り。
俺には花宮しかないんだ―。
ぎゅ、ともう一度強く抱き締めると花宮が擽ったそうに身を捩って笑う。
「バァカ、居させて下さいだろーが」

俺の家には『猫』が住み着いている。
自分勝手で、偏食家で、寂しがり屋な『猫』。
俺の全てを奪っていった、愛すべき俺の『猫』。
その『猫』の名は―

「花宮、愛してるよ」

To be continued...