遠いと近くて、近いと遠く感じるものはなーんだ。
答え:俺達の関係。
それでも俺達は何だかんだうまくいっていたりする―不思議なものだ。

"ep.3 本の虫"

「お疲れ様で〜す」
ギィ、と扉を開ければ雨の匂いが一層きつくなった。
右手に持っていた傘をおもむろに開けば、夜闇がぐんと近付いてくるような気分だ。
「今日はいるかな〜…」
パシャリと水溜まりに波紋を広げながら春日は誰に言うでもなく呟いた。
47時間―それが岩村と春日の1週間に会える時間だ。
岩村は1限から教職課程の講義で、夜は春日が実験の為に遅くまで研究室に籠っている。
やっと家に帰ってきても、お互いに疲れていて、おざなりな会話を交わして寝てしまう。
まともに一緒に生活できるのは精々日曜日くらいだ。
「…それ、一緒に暮らしてる意味あるのか?」
「俺は楽しいよ〜…ってか、それ宮地が作ったん?」
昼休みに偶然大坪に会った時だ。
大坪は黄金色に焼かれた玉子焼きを摘まみながら照れ臭そうに笑って頷く。
見せつけてくれる奴だ。
けれど、大坪が言うと嫌味を感じないのは何故だろう。
「お前だって岩村が作ってくれたんだろ、それ」
春日が取り出したランチボックスを大坪は指を指しながら感心したような声をあげる。
そういえば大坪は料理があまり得意ではないと以前に言っていたような気がする。
「いんや、今日は俺の担当〜…じゃなくて、やっぱり会わなきゃ意味無い?」
「…宮地なら発狂してるな」
「マジか〜…」
成立してる方が不思議だ、と真面目な表情で言われてしまえば流石の春日も苦笑を浮かべる事しかできない。
異様な生活だというのは自分でも理解していた。
ただのルームシェアならいざ知らず、岩村と春日は世間でいう恋人同士なのだ。
それが1週間のうちまともに会えるのが1日2日と言ったら、普通は恋情も冷めて破綻してもおかしくはない。
「確かに、高校時の方が会ってるもんなー…」
「…何でそんなにのんびりできるのかが俺は謎だ」
呆れた表情を浮かべながらも言葉の端々に気遣うような態度を見せる大坪に、春日はとりあえず大丈夫だからと笑っておく事にした。
「大坪が思ってるよりずっと幸せだよ、俺達」

岩村がここに居る、それだけで幸せだ。
此処に居れば岩村は帰ってくる、その事実だけで春日は愛を感じられたのだ。
「…安上がりだなぁ、俺」
傘から落ちた水滴が足下の水溜まりを歪めて、そこに映る春日の表情も歪んで消えた。
会えないのは寂しいし、独りは悲しい。
けれど、それ以上に岩村と共に過ごせる時間が幸せで愛しかった。
ただいま、と言って夕食を食べながら他愛のない会話をして。
そんな何気ない二人の生活の残り香がする家にいられる事でさえ、春日にはたまらなく嬉しいのだ。
―でもまあ、会えるなら会いたいよねぇ…。
明日も研究室に籠る事になるだろう。
そうしたら、明日も岩村に会うのは厳しいに違いない。
雨雲がますます色濃く迫ってくるようで、春日は溜め息を吐いて力なく笑った。
「……岩村、出てこ〜い」
「春日…?」
「へ」
「お前も、今終わった所か?俺もちょうどバイト上がりで……春日?」
声が、出なかった。
会えなくても寂しくない、なんて思っていたのが嘘みたいに辛くなって。
「……会いたかった、岩村」
「あぁ…春日、ただいま」
ここが街中だって事も忘れて、傘も放り投げて春日は岩村に飛び込む。
岩村の少しだけ高い体温とほんのりと香る煙草の匂いに春日はゆっくりと目を閉じた。
「おかえり、岩村」

「……で、居残る事にした、と」
「そうすると岩村のバイト上がりと丁度一緒になるんだよな〜。俺も実験が進められるし…一石二鳥って奴〜?」
南瓜を一口放り込めば、甘辛い味が舌全体に広がる。
今日は岩村が作ってくれた野菜たっぷりの弁当だ。
大坪はどう返事をしようか逡巡した後、困ったように笑みを溢した。
「お前らは分からん」
「そうか〜?でもさ、分かったんだよ」
「何が」
「へへ…会わない時間が多い程、会った時嬉しい」
「……」
今日は何と言って迎えようか―春日は南瓜の欠片を口に放り込んでもう一度笑った。

To be continued...