ブブブ、と携帯が震えて笠松はゆっくりと目を開いた。
カーテンの隙間から除く陽光はもう高さをもっていて、昼近い事が分かる。
―寝過ぎたな…。
昨晩遅くまでレポートやらバイトの為のレジュメ作りをしていたとはいえ、元来朝型である笠松にとっては不甲斐ない起床だ。
気怠さを訴える身体を無理矢理起こして未だ震えている携帯を開けば、久しく見ていなかった名前に笠松はおや、と目を瞬かせる。
一昨年の夏に後輩の大会を見に行こうと誘って以来だろうか。
切れ長の瞳が人の良さそうな笑みを浮かべる姿を思い出して、フッと笠松も笑みを溢した。
―もう、2年も経ったんだよな。
懐かしさを噛み締めながら笠松はようやく通話ボタンを押して、息をそっと吸った。
「もしもし、」

ep.1 カフェラテ

「おかえりー」
フワ、と湯気の立つマグカップを片手に持ってキッチンから出てきた姿に、笠松はどう返事をしたら良いものか分からず、とりあえずただいま、と当たり障りの無い言葉を返した。
「これからバイトだっけ?」
「いや、今日は休み」
「ふーん…あ、じゃあ買い物でも行くか?そろそろ食材無くなるし」
「……森山」
ソファーに座ってのんびりとマグカップに口を付けて話す様子に、ここは果たして誰の家だろうか、と考えたくなってくる。
森山、と呼ばれた男はそんな笠松の苦悩に気付く由もなく、チラシあったかな、などとラックを弄る。
「…森山」
「ん?あー、疲れてんなら俺だけで行くけど?何買う?」
あくまでも自分のペースを崩さず、思い込み始めたら誰が何を言おうと話を進めていくのは森山の昔からの悪癖だった。
ハァ、とわざとらしく笠松が溜め息を吐いてみても、森山は気にすることなく見つけ出したスーパーのチラシを見て献立を考えているようだ。
「ちょっと、荷物置いてくるから…そうしたら買い物、行くか」
「おー…あ、コレ美味そう」
―もう、慣れたけどな!!
そうして笠松は何度目かの溜め息を吐きながら自室への扉を開いた。

3ヶ月前の事だった。
「今からさ、笠松の家行って良い?」
森山は電話口で開口一番そう告げてきたのだ。
休日の昼下がりという事もあり、電話口から聴こえる騒音がいつも以上に賑やかさを増している。
「別に構わねぇけど…何かあったのか?」
カーテンを開けながら、どこか浮わついた様子の森山に当然の疑問を投げ掛ける。
「えーっとだな……家に着いてからじゃダメか?」
どうやらかなり重要な話らしい。
笠松は机に乱雑に置いていた資料を掻き集めながら、森山の所在を聞く。
あー、と申し訳なさそうな声の後に呟かれた名は笠松のマンションから徒歩10分の駅で、笠松は呆れる他なかった。
「…場所分かるな」
「悪い」
「お前の『突然』には慣れてる」
気にすんな、と暗に含ませて笑ってみせると森山もすまなさそうに笑っているようだった。
それから程無くしてやって来た森山は余程急いでいたのか、笠松の知る洗練された着こなしとは程遠い、部屋着のような姿だった。
「…実はさ、彼女に家、追い出されちゃって」
「ハァ?!!」
―そんな事の為に、俺は慌てて資料を片付け、掃除までしたのか!!
さすがに勝手過ぎる、と右手を握り込むと森山が慌てたように肩を掴んできた。
「ウソウソ!!…そんな理由でダチを頼ったりしねぇよ、俺だって」
格好悪いだろ、なんて大真面目に言われれば、笠松も呆れるしかなかったが、とりあえずシバいておく事にした。
「…で?」
「えーっとだな…来年から、俺の大学校舎変わるの知ってるか」
「あー、何か統合するんだっけ?」
インターネットか何かでそんな事が書いてあったような記憶がボンヤリと脳裏に浮かぶ。
確か、新校舎はここの近くだった気がする。
「実家からだとキツそうだな」
「そうなんだよ…それで、こっちに一人暮らししようと思ったんだけど」
モゴモゴと言葉を濁す森山の様子に、嫌な予感が頭を過る。
「…けど?」
「……その、良い物件ってなかなか無いんだな」
森山は学生街だから簡単に部屋など見つかるだろうと高を括っていたらしい。
「バカ…」
「うん、知ってる…」
実はこの辺りは昔からベッドタウンでもあって、なかなか学生に手頃な物件は少ない上に競争率が高かったのだ。
笠松も今の部屋を合格すると同時に探しに探し回って漸く手に入れていた。
思い立ってすぐに部屋が見つかっていたら、それは余程の強運持ちか部屋が曰く付きなものに違いない。
「それで笠松に相談があるんだけど」
「…どうぞ」
次にくる言葉はある程度、というよりほとんど分かっていたが黙って先を促した。
明日、両親に連絡を入れなければ。
「……居候、させて下さい」

「今日は鰤が安売りだって」
先を歩き、店内の商品を物色していた森山がニコリと笑った。
あれから3ヶ月、なかなかに生活は上手くいっている。
森山は意外にも料理は得意で、当番の日は嬉々として帰ってくる。
当初は森山が友人―特に女友達―を連れてくるのではないかと警戒していたが、今のところその懸念は杞憂に終わっている。
「家に笠松がいるのに、連れてくる必要ないよ」
目の前の英文とにらめっこしながら、森山はそう言っていた。
それが『居候』という立場からの見解だったのか、それ以外のものだったのかはまだ分からない。
けれど、森山の笠松がいるから連れてこない、その事実だけで良い気がした。
「笠松?」
ドサッ、と鰤の入ったトレイがカートに投げ入れられる。
「…やっぱり、疲れてんだろ」
「いや、考え事」
「ふーん…帰ったら肩でも揉んでやろっか?」
笠松は肩に力入れすぎだからさ、と微笑む姿にどこか安心するのは何故なんだろう。
「よろしくな」
「え」
後2年、なんてあっという間に過ぎていってしまうんだろう。
色々な事に忙殺されて、こんな何て事ない時間は過去にどんどん追いやられていくに違いない。
それでも、このたったそれだけの時間が笠松を支えて歩かせてくれる気がするのだ。
後2年、されど2年。
こんな時もあったな、なんて笑い合える日が迎えられるように。
「さっさと買って帰るぞ!お前は時間かかると余計なモン買うからな…!!」
「そーだっけ?」

笠松幸男、21の春。

To be continued...