まことしやかに話される、こんな噂を知っているだろうか。
真夜中にそれはやってきて、見目麗しい姿で人間を誘惑する。
それに魅了された人間は極上の快楽と共に魂を吸われ、地の果てに堕とされてしまう。
それの名も姿も何人たりとも答える事は出来ない―何故なら。
「全ては森の闇に消えている、か…」
瀬戸は色褪せたインクで書かれた文字を眺めながら、ふっと息を吐いた。
「だからって俺らが怪しまれる理由なんかないっしょ」
「例え俺達が無実でも同じ場所にいれば同罪なんだよ…人間の心理だ」
「アイツら、自分の都合に悪ぃもんは全部森のせいにすんだよ!!いつか噛み千切ってやる…!!」
低く唸る山崎を宥めつつ、今日の出来事を思い返す。
思えば、集落の門をくぐった時から異様であった。

3ヶ月ぶりに此処、霧崎を訪れた瀬戸は違和感に首を傾げた。
村の扉という扉が閉められ、農作業を行う者達もどこか落ち着きのない様子で此方を伺う。
『悪しきもの』の住処とされる森に住む瀬戸ではあるが、3ヶ月前もそのまた昔もここまで疎外される事はなかった。
「っと…すいません」
「ヒッ…私は何もしてない!!だから、『奴』に言うのだけは止めてくれ!!!」
お前の必要な物なら全て揃えてあるから、と一息で村人は叫ぶように伝えると転げるように去っていく。
その叫び声が合図だったかのように、疎らに仕事をしていた村人達まで消え去っていた。
あまりの素早さに瀬戸は唖然としつつ、村人の残した言葉が気にかかった。
「…『奴』に言う?」
盗賊か何かだろうか―安易な考えを思い浮かべながら、瀬戸は用意された荷物の中身を探っていつもと変わらぬ物が用意されているのを確認する。
そういえば、霧崎はここ最近、豊富な作物を近くの集落へ売り渡していると耳にしたから、そのせいで過敏になっているのかもしれない。
そうとあれば長居は無用。
余計な誤解を受ける前に立ち去ろうと、瀬戸は麻袋を手に持って立ち上がった。
「何だよこれ…?!」
手にした麻袋一面に描かれた教会の紋章と祓いの文字に、思わず目を見開き凝視する。
「は、早く森に帰れ…っ」
「もう『奴』に殺されんのはご免だ…!!」
いつの間にか背後ににじり寄って来ていた村人が口々に叫ぶ。
―また、『奴』だ。
瀬戸は鍬や鋤を構える村人達に両手を広げて安全を示しながら疑問を口にする。
「…オイ、『奴』ってのは何だ?」
「し、知らねぇフリしたって分かってんだからな!!」
「どうせおめぇが作ったんだろ…っ、忌み子め…何で俺達の村なんかに…くそおおっ」
興奮に任せて鍬を振りかざす村人を交わしながら、これ以上此処へ留まるのは得策ではないと瀬戸は麻袋を抱えて走った。
森に入ってしまえば、彼らが追ってくることはない。
「こんな事なら山崎でも連れて来るんだったな…!!」
ずっしりと重さを感じさせる麻袋を一瞥しながら、瀬戸は森を目指した。

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